先月に引き続き映画も見なかったし本も読まなかった。月一の更新だしあんまり量が少ないとみっともない気がするけれど、こんなブログのために見たり読んだりするのはもっと恥ずかしいことでもあるはず。それなりのことを言わなければいけないような気負いを感じるのは、読者を名乗る人が周りに増えてきたからかもしれない。期待されてるわけでも無いのはわかるけれど、自分のような小心者にはもっと更新頻度が高い方が気楽な気もする。その胆力が無いから月一更新なわけだけれど、一つ一つの価値が下がると嬉しい。映画や本の代わりに今月はライブに行ったり美術館に行ったりした。活動的だったと言えば良い響きだろう。感想もなるべく書きたい。
見た映画
ワードプレスの調子が変でフォントサイズを上手く調節できない。別に今までのも適当だったから揃える必要は無いんだけれど。
『淵に立つ』 監督:深田晃司
よこがおを見てから見たいと思って放置していたのを見た。面白かったけれど、どこまで好きかはなんとも言えない。冒頭のメトロノームを鳴らしながらオルガンを弾くショットだとか、気まずさの漂う家庭の雰囲気なんかは好きなんだけれど、物語全体として乗り切れない居心地の悪さがあった。浅野忠信の役柄が寓話的すぎる気がするというか、彼個人はどうも家庭の物語を揺らすための装置にしかなっていないように思えるというか。俳優の力でかなり奥行を作っているように見えるけれど、脚本のレベルで二面性を作ったせいで前半までに作られていた厚みがよくわからないものになってしまっていたような……。急に雰囲気が変わる川でのシーンなんかはかなり面白かったけれど、あの面白さのせいで失ったものはあると思うし、俺はそこで失われたものの方に期待をしていた気がする。もう少し突っ込んだことを言えば、復讐心の捉え方に共感できないところがあった。というか彼の内部に実際的な感情を感じられなかった、みたいな言い方が正しいかも。単なる印象論になってしまうけれど。
古舘寛治の演じる夫の役は良かったし、筒井真理子も良かった。事件を経て初めて夫婦になれた、だなんてあの場で言ってのける呑気さというか、卑しさな気もするけれど、ああいった物事の捉え方は見覚えのないものでは無い気がする。執拗に手を洗う癖も現実感の喪失からくるものと考えれば、頼れるものは手に触れる感覚とかになるのもわかる。
よこがおにも思ったけど物語が因縁的というか、運命が収束していくような話作りをするなと思ったけれど、それについてはまだどう判断して良いかわからない。それによって世界は狭くなっているけれど、承知の上でそうしているのは見ればわかるし、それによって作れるものを作ろうとしてる作家ではあるはず。俺の感じた不満もこの辺から逆算していけば解消できそうな気はするんだけど、まあそれはもう何作か見る必要がある気もする。今年中にもう何本か見れたら嬉しい。
読んだ本
映画も小説も一つずつしか書けるものが無い。その代わり色々思うところはあった気がする。まあもう一冊ぐらい読めたとは思うけど。
『カラマーゾフの兄弟』 著書:フョードル・ドストエフスキー
タイトルを書いてて恥ずかしくなるぐらい今更な名作だけれど、実際読んでる人はそんなに多いわけでも無いはず。そういう中では読んでる人が多そうだけど。こんなのを褒めちぎってもしょうがない気がするしハッキリと好きになりきれない部分の話をすると、問題が観念の世界に閉じすぎているような気もした。無神論と自由な人々の卑しさの問題については深い洞察があるし、それだけで読んでてずっと面白いんだけど、文章にエロティックなものが無くて読み手の卑しさを満たしてくれない小説だと思った。アンナ・カレーニナなんかは言葉に肉感が伴っていてそれが物語にも関わっているけれど、カラマーゾフの兄弟にはその部分が無くて物語もそれに準じた作りになっているように感じた。アンナと比べてグルーシェニカの描写はエロくないでしょうというか、これはトルストイとドストエフスキーで観察の向く向きが違うのかなと思ったりもするけど、前者に比べてこの作品は人の嫌なところばかり書くのが上手い。とにかくそこが面白いんだけれど、たまに話が難しくなりすぎて眠くなったのも事実。
近代の問題として無神論や自由主義、債務巻と憎しみ、裁判、父子、とまあこれだけで色々言えそうなトピックは色々あるだろうし多分よく読めばもっと色々あるんだろうけど、この辺の話を改めて俺がする意味は無い気がする。近代の超克を考える上で最近は情念についてよく考えるけれど、情念を抽象化して語に切り分けるよりも、素朴なエロティシズムそのものの方が多くの示唆に富んでるんじゃないかとはよく思う。素朴さには卑しさもついて回ることも含めて、エロティックなものを扱うことは重要だ。ドミートリイのような卑しさと素朴さの結びついた、近代的、カラマーゾフ的な人間を正面から扱う上で、性を抽象化せずに見るというのは重要なんじゃないでしょうか。
そういう意味でアンナ・カレーニナの話の身も蓋もない妊娠劇(アンナもするしキチィもする)は良かった気がする。勿論今全く同じものを書くやつがいたらヤバいし普通に最悪になるとは思うけど(最近の富野由悠季はそれになってる)、性に対する偏向的な眼差しを抽象化せずに出すことはメタファーのレベルでも重要な気がした。the hatchのライブを見ても思ったけど、音楽が性のメタファーを演じられなくなると、演奏が言葉通りに楽器の扱いという意味に終始してしまうように思った。その上で持てる政治性が自由と解放のイメージでしかないのであれば、60年代に比べて退行してる気すらしてくる。単純に、吉本隆明が言ってることとか普通に大事なんじゃないのとか普通に思う。話が逸れた。ドストエフスキーは古本屋で安く買えるやつを適当に読んでいこうと思う。卑しい人間を見るのは好きだから。今月は時間をかけてこの本を読んだのもあって、アリョーシャとかイワンが自分の友達のような気がしてた。
見た展示
今月からなるべく展示の感想も残そうと思う。大して書くこと無いことも多い気はするけれど、去年に比べて確実に行く頻度は増えてるわけだし。
2026年5月16日 国立西洋美術館 チュルリョーニス展 内なる星図 常設展
友達の話で興味を持って何となく行った。チュルリョーニス展で面白かったのは正直二章の音楽の構造を絵画に持ち込むくだりだけかも。音楽を構造として捉えようとした時に音の時間的な動きを空間に置き換えて捉える試みからは、平面図としての楽譜の影響はある程度伺えるわけで、ちょうどこの頃考えていたことに関わるようで面白かった。
音楽の空間的側面について考えたいと最近は考えていて、チュルリョーニスのそれは自分の考えていることとは違うけれど一つ興味深くあった。チュルリョーニスのやっていることはあくまで時間を空間と読み替えるということで、音が一度楽譜の上に言語化されているからできたことなのかと思うと西洋的ではあるのかも。それが最終的にコスモポリタニズムに傾くのもまあわからないでもない。俺は全然好きじゃないけれど、神秘に対しては慎重でいたい。
しかし最近は音の始まりと終わりをハッキリ定めて、その音が何であるかを客体的に規定して、無数の一音の総和を音楽と捉えることについて、なるべく慎重でいたい気もする。その方法をまるで捨ててしまいたいとは思わないけれど、もう少しぼんやりと音楽を捉えたいと思う。マヘルのライブを見て思ったことだけど、ソニックユースなんかもそういうことな気がしますね。
追記:最近話題になってた音楽をレイヤーで捉えるのがどうのみたいな話にも関連付けられる気がした。面倒だからあんまり書かないけど。
常設展は疲れてたから絵画は全部飛ばして彫刻だけ見た。多分意識してロダンを見たのは初めてだったけど、本当に良かった。盛り上がる肉体の官能と静止した時間の虚無的な物質性、矛盾の物象が自分と空間を共にしているあの歓喜は筆舌に尽くし難いものがある。正直西洋絵画にそんなに興味が無いのものあって常設展のほとんどを見飛ばしたんだけど、それでもまた行きたいと思えた。彫刻良いですよ本当に。とりあえずロダン見てみると良いと思います。正直ギリシア彫刻とかはよくわからないけど、近代彫刻は本当に面白い。空間を規定する物体が目の前にあるって結構感動的だと思う。公共彫刻も今年は多く見れたら嬉しい。
2026年5月17日 西山美術館 常設展
最悪。無料だったから許せたけど、金払ったらマジでムカついてたと思う。ロダンが見れるって言うから来たのに謎の開運神社とか回転するパワーストーンを見せられて肝心のロダンの彫刻は少ししかないし、キャプションも最悪だった。可愛らしさを表現したことからご婦人にも人気…みたいなこと書いててそれがなんかムカついた。宝石と彫刻を並べるセンスってマジでどうなってるんだ。仏像的に捉えてるってこと?ロダンを?彫刻の森美術館で関西から旅行に来たと思われるおじいちゃんが膝撫でながら触ると膝が良くなるって言ってウケを取ってたけど、それに近い感覚ってこと?相当金はかかってると思うけど、それでやることが回転するパワーストーンとか金ピカの考える人だったりするのはまともじゃないだろ。意味不明。あんまり言及してる人もいないし、キワモノとして疎外された場所なのか。庭は良かった気もするけれど、展示を見た後だと目的意識の無い庭だったような気もする。漠然としていて、なんとなく綺麗みたいな。五島美術館の庭なんかはもっと作品的というか、内容のある庭だったような気がするけれど。スカムを目的としても行って良い事は無い気がする。近くにあった自由民権資料館の方が良かった。小さかったし内容も大したことは無かったけど、面白い部分もあった。自由という言葉が明治の初めに流行ったころ、蕎麦屋の名前とか子供のおもちゃに自由ってとにかく付けられて、概念として普及したというよりまずはそういう受け取られ方だったらしいですよ。多分ハンドスピナー的なことだと思います。なんとなく示唆に富んだ話なような気もしますね。
2026年5月31日 箱根彫刻の森美術館
環境芸術としての現代彫刻、場を作る芸術としての彫刻の在り方をかなり意識しながら多面的に捉えた良い美術館だった気がする。本当に良かった。絶対後悔しないから暇を見つけたら箱根に行ってください。誘ってくれたら俺も行きます。毎月行きたい。
彫刻の魅力はまだ言葉にしきれない。基本的には空間的な芸術であるが故に特殊な時間を持っていて、ロダンのような虚無性もあるし、逆に公共彫刻には逆に長大な時間も流れている気もする。空間の形成についても決定的に自然と対立しながらも、そのまま空間に溶け込めるような軽さもある気がするし、空間を作り変えてしまう場合もあるだろうし、みんなが無視してるだけなのかもしれない。
2032年ぐらいに彫刻が流行るんじゃないかと思います。それと共に社会主義も流行ることでしょう。乗り遅れるな!
音楽
From A Summer To Another Summer – Maher Shalal Hash Baz
今月半ばにマヘルのライブを見に行って、それからしばらくはこのアルバムをずっと聴いてた。
マヘルの演奏が境目の曖昧な場を形成していたのはあそこにいた多くの人が感じたことであろうけれど、そのぼんやりとした気分のまま一時間が過ぎてるあの時間の感覚は得難い体験だったように思う。
細かい音符の連なりによって形成される全体というよりも、それぞれの音同士の関係がそもそも曖昧で、音楽全体の中にいくつもの音が鳴っているぐらいの言い方が似合うような。例えばマヘルの演奏の中での一音の価値は軽いし別にズレても間違っても良い感じがあって、正確な鳴るべき音というものが用意されていないような聴こえ方がする。勿論曲を演奏しているわけだから何か決め事はあるはずなんだけど、あの人数で音の揃いが曖昧だから一音を正確に捉えようという気にはならない。そもそも一つの音とまた別の音を正しく切り分けて聴く必要は無いし、そのために音楽を細かく切り刻んで、最小単位としての音符を絶対的に扱う文化も西洋的なものであると言えばそうな気はする。
工藤冬里という中心を持って形成される音楽的な場の内部で未分のものがいくつも現れる、こう言い表すと京都っぽい気もするけどこの辺は詳しくないからなんとも言えない。まあでも日本的と言えばそうですよね。音の自立性よりも全体的な空気を優先する音楽の志向はいかにも日本的と言ってみても良いんじゃないでしょうか。別にその音がその音だけで成立する鳴り方はしてなかったとして、それが不自由な感じもしないのが面白い。つまり各人が勝手な行いをするわけだけど、それが全体の持つ目的に適っているというか、各人は必要に応じて能力に応じてみたいなことを言い出したらギャグですかね。
マヘルのライブの中心にいる工藤冬里の存在感と公共彫刻の存在感には似たものがある気がする。つまり、場を絶対的に規定する中心ではあるんだけど、無視することができるというか。疎外された中心としての工藤冬里=公共彫刻の舐められ方、それらが笑いを伴って立つことに共通する象徴性があると言えばあるような。良いライブだった。この日からぼんやりした音楽、退屈な音楽についてよく考えるようになった。それでソニックユースとかジャズとかをよく聴くようになったけどまあその辺は別の話かも。
モーリン・タッカーが参加してたらしい。ふーん。この曲もそうだけどとにかくぼんやりしたアルバムだと思う。雰囲気だけで進んでいるというか、普通に何してんのかよくわかんない時間があって良い。曲という単位がそんなに偉くないというか。細かい単位を用意してそれを集めるとついその一つ一つを多様にしたくなるけれど、そうすることで損なわれるものも当然あるなとは思う。最近はもっとなんとなくしたものが作りたい。PSP Socialのこの曲なんかかなりいい線行ってると思うんだけど、今度サブスク復帰させるかも。
今までも好きだったけど音楽がよくできてるみたいな聴き方だったのに、この間急に歌の気分ごと好きになれた。特にこのアルバムが良い。普通にこのアルバムで泣ける感覚全然わかんなかったのに急にわかった。散歩中に急にわかった瞬間が訪れて感動した。それが何なのか知らないけど、なんとなく大人っぽくて良いですね。
今月はだいたいこんな感じです。無理して色々書こうとしたかも。自主企画が一か月後に迫ってきて緊張してます。バンドの状態はまあ悪くないんじゃないかと思う。ただまあ流石に初ライブ的ではあると思うけど。メンバーが増えただけで変わらない部分もあるけれど、もう全然別のバンドのような部分もあるし、演奏がどの部分でまとまるのかがよくわからない。まあ頑張ります。ZINEも用意してるし会場についてもある程度考えて用意してます。エスパー教室の中断はもう仕方がないけれど、あの頃自分がやってたことは別に今になっても古くはなっていないはずだし、何はともあれライブをやれることが嬉しい。取り置きは一応あと8人までで、もしかしたらもう少し入れて良いことになるかも。まあ本当にお金が無いからなるべく多くの人に来てほしい。アルバムの内容とかZINEとか含めて、音楽やってる人に見てもらえたら嬉しい。それに限らず音楽が好きな人、何かを作ってる人に見てもらいたいような。まあ自分ぐらいの規模だとそうでない人が来る方が難しいとは思うんだけど。良い内容になるとは思います。やりたいことがたくさんあるのに色んな都合で追いつかないのは悲しい。本当は毎週スタジオに入りたいし、もっと増えても良いぐらいではある。
自主企画予約してください。

