『膨らみの中の分裂たち』パンフレット冒頭分

      column

      7月5日のライブで配ったパンフレットの冒頭に載せた文章とその補足のための文章を公開します。ライブを見ずに読んでも何の話かわからないかもしれないけれど、これだけで読んでもそれなりに面白いとも思います。まだ20枚ぐらい余ってるので通販で売ろうかと思っています。これもアルバムの制作費に充てられたら良いんじゃないでしょうか。
      こういうアジ文的というか、大きく出るような文章はなんとなく癖で書いてしまうようなところがあって、別にバンドとして常に掲げたい大儀かと言われると正確じゃないし、誰かに喧嘩を売りたいわけでもないけれど、しかしまあ批判を批判として明確に行うことは重要なんじゃないかとも思います。
      僕はロックバンドが馬鹿のふりをすることしかできなくなった現状に不満を抱いています。ロックバンドが単なる遊びでは無く、一つの体系として成り立つためにはその文化独自の「智」のようなものが必要なんじゃないでしょうか。勿論みんな真剣にそれに取り組んでいるんだとは思うけれど、現状は内側に小さく閉じていくような発想が支配的なように見えます。
      ロックバンドはもっと真剣に考えなきゃいけない。くだらないことやってるんだから、せめて言うことぐらいは立派じゃないと音楽なんて誰も相手にしなくなる。そのために考えるべきことのピントがどんどんズレていっているように思えてならない。このことは音楽以外の問題にも言えると思う。
      考えることへの期待はどんどん下がっている。誰もが答えはもう出ているように思ってるんじゃないかと思う。そんなことは無い。流行の言葉に踊らされている暇があったら本の一冊や二冊でも読まないといけない。僕はロックバンドが批判と抵抗のための武器になりうると信じている。昨日の演奏はお世辞にも良いものとは言えないだろうけれど、誰かの足元を揺るがすことぐらいはできたんじゃないかと思う。レコーディングは来週から始まる予定だから、上手くすれば年内にはリリースできると思う。楽しみに待っていてくれると嬉しい。

      新作アルバム制作について

      PSP Socialの活動休止は2024年6月に開催予定だったエスパー教室の中止から断続的に行われていて、ここ2年の活動は延命的な、名前が死なないためのものだった。スタジオに入らずライブに出たり、リモートで音源を作ったりと、色々としたけれど実質的にバンドの形を取り戻したのは今年に入ってからのことだった。あんまり言うとみっともないけれど、それなりに苦悩を抱えた2年間だったのは間違いない。
      アルバム制作の契機としては、去年の即興コンピに提出した曲のような作り方で1枚、EPぐらいのものを作れないかと思ったのが最初だったと思う。つまり、アコギの弾き語りを中心にリモートで素材を切り貼りして、編集を前提に宅録とバンドの中間点のような作品が作れないだろうかと考えたことが今回の作品の始まりだった。結局その姿は取られることが無く、早い段階でバンド作品にする方向に舵が切られ、当時サポートだった古山くんに加え、上京したての小山くん(Seven Front Sessions)を誘って、ギター2本体制でのスタジオに入ることとなった。その結果スタジオ内にはこやまが2人いることになり、やりにくいことこの上なかったのは別の話である。
      田村の復帰をいつから前提にしたのかは思い出せないけれど、小山くんはあくまでサポートと割り切ることにして、彼の弾くフレーズは基本的に自分の考えたもの、つまり自分でも弾けるような簡単なものに統一された。サポートの演奏に属人性が高まると替えが効かなくなるのを避けるための措置だった。これも結局それだけじゃ作り切れないことに気付いて、無理を言って田村に戻ってきてもらうことになった。苦労を強いることになったのは申し訳ないけれど、27歳でまだバンドをやるというのはそういうことな気もしてる。
      当初の予定通りにはならなかったけれど、弾き語りであること、簡単であること、この2点が作品の方向性を決定付けた。それ自体は聴いてもらえばだいたいわかることだと思う。音楽性が大きな目的にあってそれに動かされていたというより、状況から出来ることを探したらこうなったというのが正確で、自分たちの目的をフォークとかベルベッツとか、そういったジャンル名のみとするのは物足りない。
      今作のコンセプトはメロドラマ、恋愛の話を軸とした作品を作ることだった。
      近代文学や古典映画の世界では、あらゆる作家があらゆる恋愛の話をして、古今東西のいついかなる階層の男女もがみっともない性の世界に耽溺する様が描かれる。性の普遍性という話をしたいわけではなくて、閉じた関係の話は多くのメタファーを含んでいて、その関係がいかにいかなるものであるかを語るだけでその他多くのものを思い出させるような構造を持っているという話だ。自分の趣味の一つにそういう恋愛映画を見ることがあって、成瀬巳喜男や木下恵介の映画の世界、川端康成や林芙美子の近代文学の世界を音楽に持ち込みたいと思ったのが、今作がデモのレベルでアルバムの様相を持ち始めた契機だったと思う。
      これまで恋愛の曲を作ったことは無かったし、そもそも曲にしたいと思うような経験もない。想像だけで恋を作れる程詳細にそれを知っているわけでも無いし、そんなことをしたら陳腐さに目も当てられない作品になるだろう。その結果、まずは普段通りに歌詞を書きながらそれらしい隙を見つけたら恋愛っぽい言葉を歌詞に当てはめていく、全然関係のない歌詞を無理矢理恋愛の話にしてみるという方法を取ることにした。結果としてなんだか不倫みたいな歌詞が増えたのは、趣味もあるけど当時ハマっていた本や映画の影響だろう。
      個人的には恋愛の話を歌うことは党派性に縛られたあらゆる言説を歌うことよりもはるかに政治的であると信じてこのアルバムを作った。性の倦怠を歌うこと、ロックバンドにおけるエロティシズムの位置を置き換えることは、ロックバンドが批判の体系を取るための一つの可能性になるのではないだろうか。
      戦争反対を歌うということは、あくまで戦争反対という言葉の持つエロティックを歌うことに他ならない。言葉の意味をどう扱うかは聴取の判断にゆだねられる。それはあくまで政治を題材にしただけであって、批判の体系を取ることにはならない。意味の通りに、正しく聴いてもらうために音楽が形を変えるのであれば、それは政治に音楽が負けているということだ。党派性に追従する音楽の何が批判力を持ち得るのだろうか。情動と言説の単純な一致はあまりにも退行的であることも言い添えなければならない。
      あらゆる言説は交換可能な差異でしかない。AとBとでは意見が違うということにしかならない。それらは差異である以上、商品に付与されて交換価値になる。党派性という差異の持つエロティックに振り回されることは、ある種の連帯という陶酔を生むけれど、それを批判であると言い切ることは難しい。やっていることは、ミスドの新商品に並ぶようなものなのだ。差異に振り回されてはならない。
      ロックバンドが批判の体系を取るためには、あらゆる差異化のレースから抜け出すことを考えなくてはならない。より細分化していく細かい言語と言語の交換法則への批判、そして趣味化と実践の折衷としてのポップ標榜への批判、今作の敵は基本的にこの二つだ。
      あらゆる言語は差異化のツールになる。語ることが価値を生む社会だ。芸術は今、言葉に押し負けている。批判が消えて紹介が残った。最早音楽は、いかに語られるかということから始まっている。言葉を下回る芸術の行く末は、冗談として消えてなくなるだけだろう。
      歴史の終わりのその後で何をするかを真剣に考えなくてはならない。我々に求められることは、どれか適当な史観に基づいた新規性を持ち出して、新たな交換価値を作ることではない。新しいということは既に言葉から始まるものでしかないからだ。言葉から始まるものは絶対に価値にしかなり得ない。むしろ言葉を打ち倒す音楽、言葉を転倒させるための音楽が必要だ。
      普通、ロック、性愛、社会、その他諸々、自明とされているあらゆる言葉の在り方を打ち倒すこと。これまでそうとされてきたものを疑うこと。あらゆる意味を読み替えていくこと。言葉が差異を生むのであれば、それらを読み替え転倒させる。革命的普遍は、意味の読み替えから始まる。ロックバンドが批判の体系を取るためには、イデオロギーに踊らされてはならない。このアルバムが何かの言葉を打倒する一つになっていれば嬉しい。(赤木)

      補足

      まずもって今作及び私個人の問題意識において大きくあるロックバンドと政治性の問題としての昨今の左派・リベラル(この言葉は正確ではないかもしれない)への批判は、差異付けとしての、若しくはカウンターの記号としてその他の過激な党派性やイデオロギーを称揚するものでは無いことを言い添えなければならない。あくまでロックバンドが政治批判と結びつこうとした時の種々の行動が全て、小さな共同性に閉じていくだけではないのかということへの批判である。
      当然現代のバンドは政治的言語をそのまま歌い上げる程の素朴さを持って「政治性」と対峙はしない。むしろ政治的抽象が持つ情念を歌うことによって、批判的情動を波及させることの方が実践的な政治性であるとしている音楽家の方が多数であるように思える。音楽家として言葉のままに歌うことができない事実に気づくことは最低条件であるとして、その上で彼らの音楽が気づかないうちにイデオロギーに取り込まれていることの方が問題なのだ。つまり、彼らの問題意識は批判の方向を向いているのに、彼らの音楽は同じように批判の方向を向けていないということだ。
      ジャンル名を横断しながら一つの方向に取りまとめられる現代の軽音楽たちのその横断的思索の差異付けには意味が無いことは既に述べた。問題はそれらをまとめる一つの方向そのものの方に彼らの気づかないイデオロギーが宿っているということだ。例えばJポップ標榜バンド群─標榜せずともミクスチャーそのものを目的化しているバンド群─たちの”ポップ”への過度な信頼には、大衆主義的で、構造に無批判な発想が見て取れる。そこには一つの言説的態度が無言のうちに横たわっている。最も彼らのほとんどはそもそも批判の体系を目指してはいないだろうから、子供の遊びが肥大化したものとして片づけることが可能であるけれど、先に述べたような批判的情念を歌うことの政治性に期待する人々の、率直さ故の空転の方に実際的な問題が潜んでいる。
      本来批判者であるはずの彼らの音楽が構造として批判力を持ち得ないものに囚われているのであれば、それはやはり批判されるべきだろう。横断されたジャンルを取りまとめる音楽的中心(=イデオロギー)への過度な信頼は音楽に求心力を与えるけれども、構造としてはポピュリストによる扇動に近いものがある。当然音楽は即政治では無いからそれで良いと言うことも可能ではあるが、その瞬間にロックバンドの批判力は消え失せる。芸術と政治の結びつきは常にメタファーであることを忘れてはならない。
      ポップに対抗する人々の選択は、大量の非ポップとの接触になる。要はノイズやアヴァンギャルド、クラブミュージックその他諸々のアンダーグラウンドで歴史を培ってきた音楽や文化との交錯や彼らへの理解の数だけ、大衆的蒙昧から遠ざかれるという発想だ。それらとポップ(と語られるもの、コード進行に歌が乗ったもの程度に言い換えても良いかもしれないが細かい定義には立ち入らない)を同じ軸で評価して、音楽を評価する軸そのものを作り変えようとするのは、それ自体大きく間違っていないのかもしれない。だがしかし、その構造は高品質化するポップ音楽たちとも離れられてはいないのも事実だ。であるからこそ、その読み替えの先にあるものが何であるかを常に問い続けなくてはならない。
      簡単に言えば、今時のロックバンドは無批判にヒッピーの物真似をしすぎだろう。現代の問題として国民という共同性が揺らいでいることを考えれば、体制批判者がその外側に出てしまうのは卑劣の一言に尽きる。大衆の労働の余暇として外側の幻想を見せるのがロックバンドの仕事だと言うのなら、政治性を拒絶する態度の方が嘘として一貫性があるとも言えるのでは。下北インディーが嫌いな癖にヒッピーのクリシェには騙されるような奴は、美大でロックの試験でも受けていれば良いのだ。教科書はネットにいくらでも転がっている。
      批判力を持つということは、過去への居直りでは無いし、自然に逃げ込む倒錯でも無い。現在というものから批判を始めなくてはならない。日々勢いを増す国家主義的発想に危機感を持つのであれば、その構造を捉える必要がある。その構造と芸術は常に相似関係にある。関係という抽象のレベルで、政治と音楽は結びついていることを常に考えなくてはならない。(赤木)

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