11月が終わるといよいよ年の瀬といった気がしてくる。振り返ってみれば色々なものにハマった年だった。まだ一月残ってるから振り返る時期でも無いんだろうけど、12月の末に一年を振り返るのは忙しないようにも思う。一年の単位でものを区切って考えるのなら12月の経験は推敲される間もなく流されてしまうような時間的問題があって、それを考えると今年の総括はそろそろ始めておきたい気がしてくる。12月はあくまで移行期間として扱いたい。それはあくまで暦を内面化したものの見方ではあるだろうし、これから新譜を出すバンドなんかは勘弁願いたい言説なんだろうけどそうやって生きてきてしまったんだから仕方がない。来月と再来月ぐらいまではなんとなく季節に浮かれていたいと、まあそんなことを考えてみました。まずは映画の感想から。
映画の感想
「ユキとニナ」 監督:諏訪敦彦 / イポリット・ジラルド
良かった気がするけど全体的にはうーん……。前半はかなり好きだった。子供の目からしたら離婚の理屈は理解できないと思うし、関係が不可逆であることは大人特有だよなというか。子供の喧嘩ってよっぽど酷いものじゃなければ数日で関係を修復できるけど大人になるとそうはいかないし、だからこそ愛情は貴重なんだろうけど子供にそれを理解させるのは無理があるよね。後半の森を抜けると日本に着いてるあのファンタジー感?はよくわからなかった。面白いし印象的なんだけど、別に何にも思わないというか。物語の最後に非現実的なラインを持ち込むのって良いとされがちな気がするけど俺は案外そう思ってないのかも。
「ぐるりのこと」 監督:橋口亮輔
長いのを頑張って見たけど全然好きじゃなかった。というか俺の地雷を踏みまくった映画だった。「色々あるけど、愛やねん……」みたいな映画好きじゃないんだよな。美大出のガキが大人になって結婚とかして、色々辛いことあるけど共に生きてエモい音楽が流れて……みたいな、わりと面白く見れるしよくできてるのが余計腹が立った。裁判のシーンもなんとなく誇張的というか、対象にそんなに興味無いんだろうなと思った。しかもそのことに気づいてすらなさそう。自意識が俯瞰的なのは良いけど、社会と自分が繋がってると思ってないから犯罪の外側に立てるわけで、それを達観した身軽さのように描かれると萎える。常日頃思うこととして外側に立つのってそんなに努力はいらないよなというか、別に真っ直ぐ何かと向き合い続けることのみが正しさだとは思わないけど、単に考えが浅いだけの奴の裏技としての”外側に立つ”はあると思う。まあこの映画に一つ言うのなら、生活と犯罪の距離って実はそんなに遠くないはずですよといったぐらいのことかもしれない。
「晩春」 監督:小津安二郎
四年振りに見た。単に古すぎて退屈だとは思ったのと、原節子の父性愛描写が結構見てて辛かった。細かいところも結構忘れた。あんまり集中してなかったし。娘を嫁にやるのと同じぐらいこの頃の映画では娘を売りに出すシーンが多いけど、何が違うんだろうとか思った。そこも含んだ映画の構造なんだろうなと思ったけど。小津って好きな映画と好きじゃない映画がわりとハッキリあるような気がする。財布盗むところは笑えた。
「山の音」 監督:成瀬巳喜男
最初の30分ぐらいはかなり面白かった気がする。成瀬の映画を見ると逆説的に小津のショットの面白さを感じるけれど、俺的に見やすいのは成瀬の方かもなとか思った。まあ後半は単純に退屈。川端康成の原作はもっと暗い虚無を見つめる小説だったけどこの映画はホームドラマにしかなってなかった。
「ミツバチのささやき」 監督:ビクトル・エリセ
凄い良かったけど何のことかわからないまま見てた。調べたらスペインの内戦について知ってると良いらしい。ふーん。自分の知識の無さで映画を楽しみきれなかった時は単純に悔しいしそれなりに恥ずかしくも思うんだけど、直ちにその知識を身に着けようとはしない程度に俺は怠惰で、文脈の見えやすい邦画ばっかり見るのはそのせいでもあると思った。
関係無いけど最近北村紗衣がその話題で炎上してましたね。素直な感性のみで芸術を嚙み砕けると思ってる人達への批判や苦言はめんどくさいから省くとして、この人のフェミニズム批評の本を図書館でちょっと読んだらこの間読んだ『わたしを離さないで』の批評が載っていて、そこで触れられていた同性愛描写の話が面白かった。批評自体も良かったんだけど、まず文学が訳される時に取りこぼされるものの多さについて、普段から思うところはあるけれど実際にそれが起こる様が見られたのは良かった。考えてみたら文学は言葉の集積であるんだから物語だけでは取りこぼすものが多いのは当然だし、もちろん強度のある作品は多少の取りこぼしがあっても楽しめるものではあるけれど、俺が読んでるのはあくまで翻訳されたものだよなあみたいな、まあ普通のことですね。それについて最近少し思い違いをしてたけど、別に言葉って音と意味だけで出来てるわけでは無いんだなあとか、そういうことも思いました。映画全然関係ない。
「火星のカノン」 監督:風間志織
めっちゃ良かった……。薄禿の不倫男の口から発せられる気障な言葉の全てが官能で、冷静になれば間抜けではあるけれどこの映画を見てる内は何故かこの薄禿にときめいてしまう。小さく強権的に振る舞うことの恥ずかしさを無いものとして振る舞える人は魅力的だよなというか、性差に関わらずそれに従っていたい人は少なくないと思う。温泉旅行の誘いをする時にわざわざ不倫相手を恋人と言い直すあの気障さは凄い。結婚相手を生活上の存在として疎外した上で二人の関係を恋と言い直すと、なんだか真実を帯びた崇高な愛情のように思えてくる。結局娘が熱を出して途中で帰っちゃうわけだけど。『冬の河童』に比べてより入り組んだ愛情の話になっていてかなり面白かったです。他の作品も見たいからリマスターして再販するなり配信するなりしてください。
読んだ本
小説以外の本の話は省くからここで軽く書くと、前から興味があった資本論にようやく手を出してとりあえず解説本を色々読みました。ドイツイデオロギーも途中まで読んで今俺の中でマルクスブームが来ています。まあだからどうとかは特に無いんですがあり得ないぐらい面白いから暇な人は読んでみてください。資本論そのものをいきなり読むと難しすぎたからまずは簡単なやつを読んで流れをつかんでから佐々木隆治のこれを読むのが良いような。まあ俺がそういう流れで読んでハマったからそれ言ってるだけなんだけど。俺より詳しい人とか最近興味持った人いたら教えてください。読書会とかしたいです。最近はこの世の全てをこれで説明できそうな錯覚に囚われていて、陰謀論にハマったかのような充実を感じています。そんな感じで小説の感想書きます。
「万延元年のフットボール」 著者:大江健三郎
読むのに時間かかった……。10月の半ばから読んでたんだけど、あまりの陰湿さと言葉の密度に読むたびに疲れて体調が悪くなってたから3週間ぐらい放置した上で最近ようやく読み終わった。自殺好きすぎるでしょ。なんか大島渚の映画とかってこんな感じな気がする。面白いけど正直別に好きではないかも。この一文は良かった。俺も穴入る妄想するからわかるよ。

「この人の閾」 著者:保坂和志
火星のカノンが良かったからXで感想を調べてたら言及してる人がいて読んだ。なるほど確かに中年の話だ。一度切った方が読みやすそうな文章を全然切らずに続けるのが印象的で、確かに頭の中ではここまでが一区切りだよなと思うし、変な文章だけど不思議な調和があるように思った。印象的なのは『東京画』かな。普通にパトレイバー思い出しちゃったけど。
「小銭を数える」 著者:西村賢太
友達が好きだって言ってたから読んだ。酷すぎ。本当にめちゃくちゃだし、かなり笑えたし読んでて楽しかった。文章はやけに気取ってるというか、明治大正あたりの古い言葉を意識して使ってるのに話は最近の駄目な貧乏人の痴情のもつれ(というより癇癪)でしかないのが捻くれた自意識の発露って感じがして面白かった。私小説という言葉に俺はそんなにこだわりが無いけれど、画像の会話の身も蓋も無さはあまりにも恥ずかしくて確かに単なる暴露を超えた文学として成り立っているようにも思った。

「推し、燃ゆ」 著者:宇佐見りん
何年か前に友達に薦められてたのを思い出して読んだ。良かった。でもまあ特に何も覚えてないのは俺にとってそんなに切実な話では無いからかもしれない。
「美しさと哀しみと」 著者:川端康成
川端康成は何読んでも好きだと思える稀有な作家。20年以上もの時間を止める愛情なんてものが果たして実在するのかは疑わしく、文学の力によって生まれた観念と現象としての愛情に触れるのは一種の非現実への接触だとも思える。そのすぐ裏側には魔界に通じる虚無感が漂い、それらは支え合って成り立つ自然のような気がしてくる。眠れる美女とかみづうみに比べると大衆小説的だと思うけど、十分に楽しめる小説だった。これの前後に放置してあった片腕と散りぬるをも読んだ。この時期の川端康成は最高ですね。時間かけて良いから全作読みたいと思います。全集とか欲しい。
音楽
今月は全然音楽を聴かなかった。ライブにも行かなかったし、自分が出るライブの対バンを見るぐらいの消極的なものしかなかった。まあなるべく印象的なものの話をします。
自分の曲のリミックスをお願いしたこともあるしそのぐらいの距離感の人の音楽を取り上げるのはなるべく避けたいんだけど、この曲は今月よく聴いた。良い曲ですね。宅録サイケポップ的な切なげな音像も良いし、なにより歌が良い。というか歌詞が良い。最近歌を作る人間は詩人の自意識を持つ必要があるなとよく思うけど、本当の意味で言葉にこだわりを持つ音楽家は少ないんじゃないかと思う。つまり音楽のバランスを一番崩す可能性があるのは歌詞でしょうというか、音楽を大きく揺らがせる力のあるものが一番重要と言うこともできるでしょうというか。まあ音楽性好きな感じするのに歌詞で好きになれない音楽って多いと思うし、そういう寂しさに向かわないようにしたいねというかこれは俺の話。
骨拾いって川端康成の小説にあるけどどれぐらい好きなのか気になる。歌詞は多分あんまり関係なさそうだったし。
The Kinks – Just Can’t Go to Sleep
友達がキンクスの話で盛り上がってて、あんまり聴いたことないと思って聴いた。結果これ以外のアルバムにはそんなハマらなかった(まだ全部聴いたわけではない)けど、この曲は凄く良かった。愉快で良いですね。歌がハッキリしてて好きです。これ書きながらまだ聴いてなかったこれ聴いてるけど普通にこれが一番好きかも。多分一番有名なやつ。
John Tremendous’ Soft Adult Explosion – 他人は他人である
”音楽にユーモアを持ち込みたい”という欲望の源泉はいったい何なのか。恐らくそれは恥ずかしさの問題で、つまり正面からロックバンドをやることができないから一旦迂回して自分の音楽を相対化した上で改めてロックをやるというのが現代におけるロックバンドのマナーなんだと思う。もちろんそれに則らないバンドも多くいるけれど、エクスキューズを求めるのは音楽の政治性とその危うさを認識したうえでの行為だと思うからこの前提を通過していないバンドは基本的に興味を持てないのが自分の本音。そのうえでどういう態度でやるのかをみんなそれぞれ選んでいくんだと思うけど、ジョントレの今回のアルバムはその意識を強く感じた。その上で成功と失敗がそれぞれあったのが総評として正しいと思う。
例えば「しかの」の後半の展開は茶番のようで演奏や音楽の外側に飛び出たユーモアが空転している恥ずかしさがあるし、とにかく全体を通して笑いと音楽のバランスが崩れていて全作までにあったシニカルさが欠如してしまっているのがこのアルバムの最大の問題だと言える。
ユーモアによる相対化によって内部に抱える問題を煙に巻きながらその端々から本音のようなものが見え隠れする……ざっくり言うとジョントレの音楽にはそういう構造があって、前作やスペース露出狂まではそれぞれの要素が混然としていて捉えきれないシニカルさを持っていたのに、今作はその要素が完全に分化してしまっている。笑いの時間とそうでない時間が完全に分かれていて、これまでより逆に単調になったようにも思える。
「他人は他人である」はその分化した作風の中でのみ存在を許された曲で、これまでの音源ならまず入ることのなかったであろうこの曲がリリースされたことはこのアルバムがもたらした最大の幸福であると思う。エクスキューズ一切なし、ただ素朴に語られる虚無感や幼さの中に植え付けられた疎外は、聴取の時間に入り込む柔らかさがあって、こういうなんでもない曲を良く作れるのはソングライティングのセンスが卓越しているからだと思う。
あれこれ文句は言ったけれど、語る価値のアルバムは少ないから良いリリースだったと思います。みんなジョントレ聴いてね。
まあこんな感じですね。今月はcomputer fightのライブが4本ありました。正直かなり迷いながらやってたんですけど、SPREADでのライブぐらいからかなり楽しくなってきました。今のcomputer fight凄く良いと思います。自分はサポートですが、今の体制の演奏はぜひ見てもらいたいと思ってます。あとはPSP Socialのスタジオに入っています。新曲はまあ自分で言うのもなんだけどかなり良いと思います。早く出したいですね。最近はずっとこの音源のことを考えています。タイトルはどうしようとかカセットで出せたら良いなとか、まあそういうことを。レコーディング前に一回ライブやろうと思ってるんですけどどんぐらい人来るんですかね。10人ぐらい来たらまあ良いかって思ってるけど、まあ決まったら告知します。
あとは前の方にも触れたけど俺の中でのマルクスブームが熱いです。金が無くて買えない本が多いから欲しいものリスト改めて公開することにしました。読みたい本で高くて買えないのはここに入れるから、フリーターにお小遣いをやるような気持ちで買ってくれたら嬉しいです。読書会もやりたいんで好きな人とか興味ある人いたらDMください。普通にめっちゃ難しいから人と読む方が気楽な気がします。あと宣伝するつもり無かったんですけど、即興コンピのZINEが残り1冊で売り切れです。普通にもっと刷れば良かった気がする。タイミングでPDF公開とかしても良いのかも。まあ考えます。発送は俺の問題でかなり遅れます。すいません。

